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出所: NHKスペシャルドラマ
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昨日(1月8日)の朝日新聞(13版)の一面と三面に「エダノミクス VS マエハラノミクス」という記事が掲載されている。連載企画のようであり、昨日付の記事は”脱成長か 成長か”という副題のもとに書かれている。経済部の記者が書いた記事のようだが、こうした連載ものの企画や編集のプロセスで記事の原稿などを社内のどのあたりの方々がご覧になり、実際の記事が紙面に登場しているだろうかなどと考えてしまう。
記者たちが、脱成長という概念をどのように措定し、どのような考え方のもとで思考を進められたのかはわからないが、そもそも経済成長がなければ価値は増えず、賃金もそして国が徴収する税も増えないことは明らかなことである。
記事の論述の中身には立ち入らない。枝野経産相や前原政調会長など政治家の言説にほとんど興味がないことが第一の理由。そして第二の理由は、この記事における記者たちの論述の質に関連するものだ。最近の新聞社の報道の質なども含めて”劣化”という言葉が脳裏をかすめるのを止めることができなかった。新聞社の社説や論説などの論述においては報道機関としての考え方をもっと述べてよいと思う。
本記事に目を転じる。例えば、次の叙述は記者たちの基本的な考え方を示すものであるようだが、私の目からみると、最初の文章と次の文章とはつながっていない。特に、後段の叙述は私には意味不明のように思われる。
「この連載を書く我々2人は高度成長が終わる1970年代前半に生まれ、バブル崩壊で金融機 関が破綻した97年に新聞記者となった。高度成長期に発表された司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場する『幸福な楽天家たち』の気分は想像しがたい」
「立国は私なり・・・」という福澤翁の言葉があると思うが、貧しい極東の小国・日本で秋山兄弟や子規のような生き様があって今の日本があると思う。秋山兄弟のような存在は、例えば、日本の幕末期から明治時代末期までの時間軸で見ても大勢いる。「幸福な楽天家」は高度経済成長期に人生を戦い抜いたのではなく、貧しい小国であったあの時期の日本を思い、秋山兄弟は軍人の道を、そして子規は新しい詩歌の道を驀進したのである。
記者たちの世代の人たちは、坂の上の白い雲を見ることもせず、「賢明に坂を下ろう」としているようにさえ思われる。
現在の30歳代の方々の議論を聞いていると、まるで自分たちは”被害者”であるかのような発言をされることが多い。この場合、”加害者”は多分社会ということになるのであろうか。私は、こうした印象を受けることを禁じえないが、このようなことは多分一般化すべきではないとも考えている。
私は、「まだ坂を上り続け、白い雲をみたい」と思う。

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